妖怪漫画家 水木しげる

美術関連の職業で成功している人物の中で発達障害(特にADHD)の特性を持つ人物は少なくないとされており、男性の漫画家の中においても大家と呼ばれる人の中にも事例が存在する。空想の世界で大層な世界観を持ちつつも作者本人の人生はありきたりで凡庸、といった話はよくあるが水木しげる(1922生~2015没)に関していえば彼自身の人生も漫画に負けず劣らず興味深くて苛烈である。
代表作『ゲゲゲの鬼太郎』を執筆するまでに戦争経験を含め様々な紆余曲折があり、その経験が作品に反映されている。幼少期より絵を描くことが好きで、紙切れと鉛筆にクレヨンがあれば風景画を主にいつも絵を描いていた。
1943年の太平洋戦争に際して、水木は軍に召集され陸軍兵士として戦時下の現パプアニューギニア、ニューブリテン島に出征させられた。
爆撃による負傷が元で左手を切断するはめになり、出血多量で死にかけるは、傷口に大量のウジ虫が湧くは、残された左腕の付け根が頭よりも膨れ上がるはと死の境をさまよった。当時の全体主義真っ盛りの日本において無意味な戦闘でただ死ぬことが美学とされた時代に、地獄を見せられた彼だが、かけがえのない出会いもあった。パプアニューギニアの原住民ピチン族との出会いである。生まれつき好奇心旺盛であった水木は原住民の衣食に拒否反応を起こすどころか、すぐに故郷に似た親しみを持って順応した。現地の住民たちからも“奇妙な男がやってきた”と言われ親切にしてもらった。
水木しげるは原住民たちに”パウロ”という名で呼ばれ、交流を深めるうちに互いに打ち解けた間柄になっていった。“パウロ”もとい水木しげるは彼らのことを南の友と称し、太平洋戦争の終結後に日本に復員した数十年後にも再び彼らの集落を訪れている。彼のエッセイ漫画によるとその際に旧友の女性から頭にかぶったモンキーバナナをプレゼントされたとある。
彼がパプアニューギニアの原住民たちと打ち解け居場所を得たことは、彼自身の気質と当時の日本の全体主義的な風潮のそりが合わず、学校や職場で常に危険人物としてや「使い物にならない」人間として扱われていた部分があった。大阪で生まれ鳥取県境港市で育った彼は変わった子どもであった。一年遅れで入学した小学校では好き放題をしており、毎日のように遅刻を繰り返したり授業中も喧嘩に明け暮れた。一方で収集癖があったようで、海岸の漂流物や昆虫採集に加え、藻や石などを熱心に集めていた。成人してからも自身の興味の向くことを優先した生き方をしていたがために、就職とクビを交互に経験した。水木しげるは戦争が終結し日本に復員してからも様々な職を転々として生活し、最終的に二十六歳の際に決心して美術学校に入学する。最初は入学資格がないとの理由から断られてはいるが、直談判のかいあって夜間部に入学できている。そして紙芝居作家と通して漫画にデビュー。世に彼の描いた妖怪たちが放たれ、愛されてゆくことになったのだ。