語学の申し子 島倉伊之助

司馬遼太郎の著作『胡蝶の夢』にはASDの色濃い特徴を有する人物が主人公である。島倉伊之助(1839生~1879没)は後に司馬凌海と呼ばれたが、彼は佐渡で早くから天才との呼び声が高く、八歳で漢詩を読んだり六か国語を喋ることが出来たと言われている。彼は医学の師匠である松本良順に従って海軍伝習所に赴きオランダ軍医であったヨハネス・ポンぺ・ファン・メーデルフォールトに教えを授かった。伊之助のオランダ語能力は群を抜いていたので彼は講義における通訳を頼まれるほどであった。彼の突出した語学力がよく分る逸話でこのようなものが存在する。医学校に教師としてやってきたドイツ人の医者が伊之助と会話をした際に、一度も日本から出たことらない彼に「あなたは何年間ドイツにいたのですか?」とたずねている。また、蛋白質・窒素・十二指腸といった単語は彼が訳した造語と言われている。
しかし、身分に無頓着で上司にも礼儀や場の雰囲気を気にせず接していたため、社会性には乏しかった。彼の残した功績は日本で最初のドイツ語時点の出版や、江戸で出版した『七新薬』という蘭方の医書である。晩年になると彼は結果を残しつつも周囲によく思われていないことを自覚し始めたが、「気にはならないが、不便だ」としただけで行動様式をさして帰ることはしなかった。