人間は魂を持った存在②

 父の介護の後半に、自分達の問題として、胃婁(いろう)について考えさせられた経験がある。転倒により骨折をしてリハビリをしていた父は、リハビリ病院で高熱を出し、救急車で総合病院に緊急搬送された。病名は「誤嚥性肺炎」で食事も飲み物も「禁食」となった。数日後、医師からの説明で、口からの食事を取ることは難しいので、「胃婁」の手術を勧められた事がある。父は元気な時から「胃婁」を嫌っていた。しかし、病院で何も食事を口から与えられず衰えていく父を見ていて心が痛んでいる時に言われた「胃婁」という言葉は私にとって非常なショックであった。当初、父は認知機能の衰えはあったものの、普通に会話を出来る状況であったが、水も食事も口に出来ない状況で、点滴のみに変わった事で、急激に衰え、眠っている時間が多くなっていた。父の病室の近くの廊下で、以前、一度話したことのあった、実母の付き添いをしている中年女性に意見を求めた覚えがある。「先程、口から食事を食べられないので胃婁の手術をする事を勧められたのですが、私は抵抗がありますが、どう思われますか?」
 その女性は「点滴も、胃婁も長く続くのは、本人はつらいみたいですよ」とだけ言うと、二人で夕日を楽しんでいた。その返答を聞いて、「夕日を見たり、日常を取り戻す事、慣れ親しんだ自宅や家族の元に戻る手伝いをする事の方が幸せに違いない」と私は確信を持つことが出来た。食事を食べられないで、寝ているだけなら家で寝ていて召されれば良いと思えたし、また、食べられそうであれば、少しずつ好きなものを食べさせれば良いでは無いか、自然に導かれるままにしようと考えた。退院の時点まで、2週間ぐらいに渡り点滴だけで食事をしていない父は痩せ細り、寝たきり状態になっていた。家まで介護タクシーのストレッチャーで運んでもらった。その後、多くの周りの方のサポートと、自宅に帰り日常を取り戻したお陰で、流動食を食べて少しずつ回復し、1か月程で、普通の食事が食べられる様になった。5月に退院をしてから、最後の8か月を自宅で過ごし、多くの方に感謝しつつ2月14日に天国に召された。以下、聖書の「伝道の書」からの引用です。

 
 「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。・・・
 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。・・・・・
私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか何も良いことがないのを。
また、人がみな、食べたり飲んだりし、すべての労苦の中にしあわせを見いだすこともまた神の賜物であることを。
私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。(伝道者の書3章2節―14節)」

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