軍事の天才的変わり者大村益次郎

日本の歴史小説界の大家司馬遼太郎の作品には、ASDの特徴を示す人物が主人公に当てはめられていることがある。その中の一人が小説『花神』登場する大村益次郎(1824生~1869没)だった。
彼は明治維新の立役者の一人で、新しい時代の合理主義的な精神を体現化した人物であったとされている。因みに歴史学者の磯田道史は著書『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』(NHK出版新書)中で『花神』を最高傑作であると主張している。

長州の田舎町で村医者の息子として生まれた大村益次郎は、その稀有な才能の為に郷里を離れ大阪(当時の大坂)の適塾に住み込みで、緒方洪庵の弟子の一人として医学とオランダ語の研鑽を積んでいた。さらに驚異的な語学の才能を開花させ、適塾の塾頭まで出世していった。当時、適塾出身者は大変なインテリであり、各国大名のお抱えとして高待遇を受ける者が多かった。

たが、対人関係が苦手な彼は他人と関わろうとせず、「お熱いですね」と挨拶されても「夏は暑いのが当たり前だ」と返答するような中々の変わり者であった。大名からお抱えられるとこもなく、塾の仲間からも変人とみなされていた上、郷里に戻って開業しても同じ変人扱いされて彼の診療所には人が寄り付かないという始末であった。

このまま一変人村医者として一生を終えるかもしなかった大村益次郎だったが、幕末という混沌とした時代の変換期に彼の才覚は大いに活かされることとなる。語学に秀でたかれはシーボルトの弟子二宮敬作に見込まれた為に宇和島藩に招待され、技術者としての頭角を表し始めた。砲台を築き、見たことすらない軍艦の図面を、オランダ語で書かれた専門書を通読しただけで書き上げたという。

その後、長州藩の木戸孝允に藩士と招かれ、軍備整備を一任されてからの彼の活躍は目を見張るものがある。実戦経験が皆無にも関わらず長州征伐の戦いで指揮をとり、戊辰戦争をしきし、江戸城を無血開城し、彰義隊を僅かな軍勢で打ち負かし、数々の勝利を新政府軍にもたらした。彼の存在がなければ幕府軍に新政府軍が勝利することは難しかったとされている。彼はオランダ語の兵法書を読むだけで戦争の情景が生き生きと脳裏に浮かんで来たという。

しかしながら、新天地の長州藩においても彼の日常的な行動は何ら変わらずともかく変人であった。若い藩士が「おはようございます先生、今日はいいお天気ですね」と挨拶しても「天気は見ればわかる」という始末であった。